こんな投稿に炎上が起こる!!

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3)こんな投稿に炎上が起こる!!

私たちは世論の流れには敏感になる必要があります。

社会的弱者と呼ばれる人への心ない発言は、
本人がどういう気持で投稿したかに関わらず
炎上を生みやすいのです。

サッカーの浦和レッズファンが、
相手黒人選手に対して
黒人死ね
と投稿して炎上しました。

レッズの社長が声明を発表したり、
投稿した高校生の学校長が謝罪したり
といった騒動になりました。
人種差別やヘイトスピーチに関する内容は
日本のみならず世界的に注目されていること。

また、ある市議会議員が
「同性愛者は異常」
との投稿をして炎上しました。

さらに個人情報や内部情報の漏れについても敏感です。

東京メトロの男性社員が、
同駅の端末で勝手に利用客の個人情報を手に入れ、
ブログで公開して炎上しました。

ブログには、女性本人からを含めて多数の苦情が寄せられ、
ブログは閉鎖され企業側が謝罪文を掲載しました。

他に、「女だから・・・」のような女性差別発言や、
障害者や難病患者に対する配慮のない発言、
パワハラ、セクハラ、ブラック企業を想起させるものは
厳に慎む必要があります。

また、差別と関係ない例ですが、
公務員が停職中に「海鮮ざんまい」をしているところを
投稿したらクビになった事件が起こりました。

内容は、副業が発覚して停職処分となった公務員の女性が、
停職中に「ママ友と海鮮ざんまい」など
旅行先での写真等を自身のFacebookに投稿しました。
それを見た読者から
「停職中なのに不謹慎だ」
などとの批判が多数寄せられ、
懲戒免職(クビ)処分となったというのです。

恐ろしいことと思いませんか?

<電通新入社員自殺で
「残業100時間で過労死は情けない」
投稿で炎上>

武蔵野大学の長谷川秀夫教授が、
過労で自殺した電通社員高橋まつりさんの事件に対し、
残業時間が100時間を越えたぐらいで自殺するのは情けない
と発言し炎上。
「会社の業務をこなすというより、
自分が請け負った仕事をプロとして完遂する
という強い意識があれば、残業時間など関係ない」
などと発言しました。

この投稿に対して
「こういう人たちが労災被害者を生み出している」
「死者にむち打つ発言だ」
などと批判が広がりました。
長谷川教授は投稿を削除し、
「つらい長時間労働を乗り切らないと会社が
危なくなる自分の過去の経験のみで判断した」
などと釈明する謝罪コメントを投稿しました。
この問題を受け武蔵野大は、公式ホームページに
「誠に遺憾であり、残念」などとする
謝罪コメントを学長名で掲載。
「不快感を覚える方がいるのは当然」
とし、長谷川教授の処分を検討している。

この“問題投稿”は法律に抵触するものではない
のはもちろんですが、被害者がいるわけでもありません。
有名人ではないので、
社会を悪い方向に動かしているわけでもありません。
原因は「非倫理的で不快だ」と思う人が多かったということ。
この炎上事件からわかるのは、
社会が認知する「被害者」と「加害者」の構図と
逆のことを言うと叩かれやすいということ。
つまり、いわゆる「被害者」を批判したり、
いわゆる「加害者」を擁護するのが許されないムードがあります。
それを行うと、あたかも「加害者」を
全面肯定したかのような受け止め方をされます。
このような流れは1歩間違えれば、
少数派の意見が常に多数派に圧殺されるということになりかねなく、
言論の自由が置き去りにされつつあるという危惧があります。

ちなみにこの投稿には「いいね!」が5つついており、
この数は彼のそれまでの投稿の中ではむしろ多い方でした。
これは必ずしも全員が不快感を持ったわけではないことを表しています。

炎上したフェイスブックのコメント欄では、
口汚くののしる内容のコメントが多数ついていました。
投稿内容に対する批判だけでなく、
謝罪文への批判、人格攻撃、経歴批判、ただの悪口、
さらには過去の関係ない投稿への批判もありました。
それは彼がコメントした人に対して
反論や議論をしたことでますます助長されたのです。

この事例から学べるのは次のことではないでしょうか。
彼の考えは、少数派であることが最初から分かっていたはず。
しかも“被害者”には強い同情が向けられていたため、
その人に対して批判的なことを書くのであれば
特別な配慮が必要でした。
例えば次のような書き方であれば
炎上に発展することはなかったでしょう。
「彼女の苦しみを考えれば胸が痛むし同情する。
しかし、残業時間が100時間というのがもし本当であれば
自殺までしてしまうのは、至極残念であり
なぜ踏みとどまれなかったのかと思う」

ともかく世間のムードと逆のことを投稿することは、
それだけ反対意見に配慮した文章にするか
覚悟を持って行わなくてはならない、
そんな時代になったと言えます。

本来、人の考えに対して、適切とか不適切があるのではなく、
自分に合うか合わないかがあるだけなはず。
それをネット社会は厳しく取り締まるようになりました。
その基準は、ムードと「学校で教えられたような」倫理。
「学校で教えられたような」倫理に反すれば
すぐに四方八方から矢が飛んでくる社会には
むしろ恐怖を感じますが、それが現実です。